【北野武】全作品解説part1~「キッズ・リターン」~【感想と考察】
どうも、もゆるです。
いきなりですが「アウトレイジ 最終章」の公開に先立ち、これから数回に渡って北野武監督作品を一作品づつ紹介していきます。順不同になりますがキチンと全作品について書くのでどうかお付き合いください。
それでは第一回は北野武のバイク事故からの復帰以降初めての作品である「キッズ・リターン」(96)です。
目次
あらすじ
不良高校生のマサル(金子賢)とシンジ(安藤政信)は授業にも出ず、毎日カツアゲをしたり喫茶店でダベったりと自堕落な生活を送っていた。ある日一念発起してボクシングを始めたマサルだが、才能を見出されたのはむしろ付き合いでジムに来たシンジの方だった。
自信を失いボクシングを辞めヤクザになったマサル、そしてボクサーとして着々と成長しつつあるシンジ。二人の青春の行く末は……
北野映画未経験の人にオススメ
北野映画と言えば「ソナチネ」や「アウトレイジ」のような極道モノのイメージが強いかもしれませんが、「キッズ・リターン」は高校生を主人公にした青春もので、極端な暴力シーンや意味のわかりにくい描写はそこまで出てきません。
ですが同時にこの映画にはカメラワークやカットの割り方、主人公の性格など北野武の作家性が強く出ています。だから「北野武の映画ってどれから観たらいいの?」と聞かれたら僕は迷わず「キッズ・リターン」をオススメします。例えるなら「本格中華が食べてみたいけど辛いのは苦手」という人に薦められる辛さ控えめの中華屋といった感じでしょうか。
ストーリーはあってないようなもので、主人公はシンジとマサルという名前の二人の不良高校生。シンジは北野映画の主人公にありがちな無口な男で、そのシンジの兄貴分が「マーちゃん」ことマサルです。
高校卒業後、ひょんなことからシンジはボクサーにマサルはヤクザの道に進んで二人は袂を分かちます。二人はそれぞれ自分の道を突き進んでいくのですが、そう上手くいくはずもなく……というのがおおよそのあらすじですが、あらすじだけでは北野映画の面白さは図り切れません。
徹底して映像で語る
映像で語るとは?
映画作りのセオリーのひとつに「映像で伝えられることは映像で伝えるべき」というものがあります。「見た目は子供、頭脳は大人、その名も名探偵〇〇ン」みたいにセリフで登場人物の設定や状況を紹介してしまうと、どうしてもダサくなってしまいます(〇〇ンは漫画・アニメなので成立しますが)。
そして映像で映画を語ることを率先してやっている監督がまさに北野武その人。「キッズ・リターン」を見てみてください、とにかく映像で語るのが上手い。
例えばこの映画、冒頭にシンジとマサルが校庭で自転車に二人乗りする有名なショットがありますが、授業中に校庭で二人乗りしてる映像を見せるだけで観客には二人がどのような関係でどのような学生なのかが一瞬で伝わります。そして映像で状況と設定を語った以上、もはや言葉による説明は蛇足にしかなりません。北野映画の登場人物が異様なほど寡黙で、沈黙のショットが多いのはセリフによる説明を徹底的に排除して映像で語っているからなんです。
映像で張られた伏線を読み解く快感
「キッズ・リターン」には映像で張られた伏線が無数に散らばっています。本作は一度だけでなく二度三度と見返して貰いたい映画で、見返すと映画あちこちにその後の展開を仄めかすヒントが配置してあるんです。
例えばシンジはジムでボクシングの反則技を覚えることになりますが、実は彼が反則を教えられる少し前のシーンで、他のボクサーがジムでその反則技を練習している姿が映し出されています。このように映像表現による伏線を用いて段階的に語っていくことで、映画はより地に足のついた説得力のあるものとなっていきます。
もうこの映画一本見るだけで北野武という監督がいかにクレバーで、いかに計算づくで映画を撮ってるか一目瞭然ですよ。芸能人が片手間で撮った映画だと思ってナメてる人がいるかもしれませんが、北野武の映画はどう見ても「本物」です。
若者の心理を見抜く力
監督本人もインタビューで発言していることですが、この映画には「登場人物の両親や家庭が一切出てこない」という特徴があります。「キッズ・リターン」にはマサルの家の玄関が数回出てくるだけで、あとはもうどの登場人物の親も家族も出てきません。
親と子の断絶は北野映画ではそこそこ出てくるテーマです。例を挙げれば「菊次郎の夏」では小学生の男の子が菊次郎(ビートたけし)とひと夏の思い出を作る映画ですが、菊次郎は男の子の父親ではありません。男の子は親に捨てられておばあちゃんに引き取られているという設定なんですね。また北野武監督作品ではないものの、出演作であり北野と交流のある深作欣二の「バトル・ロワイヤル」も親世代と子供世代の分離を描いた作品と言うことができます。
ライトノベルによく見られる親と子の断絶
登場人物の両親が登場しない、といえばゼロ年代以降急速にその勢いを伸ばした「涼宮ハルヒの憂鬱」や「とある魔術の禁書目録」に代表されるライトノベルの作品群では主人公の両親が登場しなかったり、あるいは登場しても影が薄かったりする傾向が顕著です。
「ラノベ主人公に親は要らない」という定説がありましてね。正直邪魔なんですよ。悪いけど、お亡くなりになっているか、海外にでも行っていて貰っています。
— 時雨沢@キノ21巻は10月! (@sigsawa) 2013年6月11日
ゼロ年代以降にラノベ・アニメ畑で加速する親と子の断絶を、96年という早い段階で察知して映画内に仕込んでいた北野監督の感覚はさすがとしか言えません。
なぜシンジはダメになってしまったのか
※ここから映画の後半の場面に言及するのでネタバレ注意
親と子の断絶というテーマを踏まえて「キッズ・リターン」を見ると、なぜシンジがモロ師岡演じるダメボクサー林に付け込まれてボクシング引退まで追い込まれたかが見えてきます。
シンジには主体性がありません。ボクシングもマサルに勧められたからなんとなく始めただけですし、マサルが辞めるた時には連れだって辞めようとしていました。彼には自分が何をしたいかがわかっていないんですね。
主体性がない以上、シンジは自らの行動の規範となる人物を必要とします。だからシンジはマサルを兄貴分として慕いいつも一緒にいました。落ちこぼれで親にも教師にも相手にされないシンジにとって唯一自分の傍にいてくれるのがマサルだったわけです。だからシンジはマサルがどんなにダメな人間で、カツアゲしていても酒を飲んでいても付き合い続けていたのでしょう。
ところがヤクザになったマサルはシンジの前から消えてしまい、一人では生きられないシンジはすがるように林に依存していきます。ジムのトレーナーや会長を慕って付いていくことはシンジにはできませんでした。その理由はトレーナーや会長はシンジを、「強いボクサーという」条件付きでしか承認してくれないからではないでしょうか。マサルや林は、シンジがどんな状態の時でも常に彼を承認してくれる存在です。
シンジは自分をリードしてくれて、かつ無条件で承認してくれる人物……つまり親代わりの存在を求めたがために堕落の道を歩んでしまった。以上が僕なりの「キッズ・リターン」の読み方です。
「まだ始まっちゃいねぇよ」
「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねぇよ」
「キッズ・リターン」ラストのこのセリフは、希望ともとれれば絶望ともとれる名台詞です。ぼく自身は「まだ始まったばかりだよ」ではなく、「まだ始まっちゃいねぇよ」である点がこのセリフのミソだと思っていて、高校を卒業して尚スタート地点に立つことすらできず、かつその事実をポジティブに受け止めてしまうマサルにはどうしてもマイナスのイメージを抱いてしまいます。
あなたはこのラストのセリフについてどう考えますか?
ご意見・ご感想のある方はぜひコメント欄やtwitterなどに一言くだされば幸いです。
以上もゆるでした。
筋トレでもやろうかと思い立ってググってみるものの、どのサイトも提案するメニューやトレーニングがバラバラで、何と何を何回やればいいのかが全く決められない。
— もゆる@映画ブログ (@moyuru2580) 2017年8月17日
「これさえやっとけばええんじゃ」的な黄金のメニューの開発が待たれる
なぜ「スパイダーマン:ホームカミング」のスパイダーマンはこんなにダサいのか?【ネタバレ無】
権利問題で長らくMCUに参加できないでいたスパイダーマンが満を持してようやくMCUに主演デビュー!……のはずが、今回のスパイダーマンはとにかくダサい?
目次
あらすじ
超人的な跳躍力や腕力を持つ少年ピーター・パーカーことスパイダーマンは、トニー・スタークから授かったスーツに身を包み、街の平和を守ろうと自警活動を続けていた。
活躍しようと張り切るピーターだが空回りばかり。そんな彼の前にトニーに恨みを持つ男バルチャーが現れ、宇宙人やウルトロンの武器の残骸を改造し武装したバルチャーにピーターはたった一人で立ち向かうことになるのだが……。
今までで一番ダサいスパイダーマン
これまでにスパイダーマンは、2002年のサム・ライミ版、2012年のマーク・ウェブ版と複数回に渡って映像化されてきましたが、今回のピーター・パーカー=スパイダーマンは過去のどのスパイダーマンよりもダサく描かれています。
こっそり窓から自分の部屋に戻ったら中に友達がいてあっさり正体がバレたり、善良な市民を犯罪者と勘違いして糸を飛ばしたり、銀行強盗を捕まえようとするも失敗してあわや死人を出しかけたり……とにかく「ホームカミング」では初めから終わりまでピーターは失敗続き。予告で出てくる「真っ二つに割れたフェリーを繋げようとするけど上手くいかず結局アイアンマンに助けてもらう」シーンなんてまさに今作のダメダメスパイダーマンを象徴しています。
なぜ「ホームカミング」のピーター=スパイディーはここまでダサいのでしょうか? 過去のスパイダーマンや他のヒーロー映画と比較しながら考察してみます。
ダメなオタクがダメなままヒーローになる「キック・アス」
今回のスパイダーマンと非常に類似点の多い映画がマシュー・ボーンの「キック・アス」です。
「キック・アス」の主人公はアメコミヒーローが大好きなオタク少年デイヴ・リズースキー。デイヴは通販で買った傾向グリーンの衣装を着て町に蔓延る悪と戦いますが、彼は手首から糸も出なければ空も飛べません。唯一の取柄は末端神経の麻痺で痛覚が普通の人より鈍いことだけ。
キック・アスと名乗ったデイヴはリンチされていた男性を助けようとしますが、何せ一般人以下の力しかない彼ではとても暴漢は打ち倒せまん。ただあまりにもキック・アスが必死になったためか暴漢もリンチをやめて逃げ出し、その映像の録画がyoutubeにアップされてキック・アスはたちまちヒーローとして扱われるようになった……というのが映画の発端の部分になります。
身体的には一般人のデイヴがなぜヒーロー足りえるか? それは彼がやろうと思えば誰にでもできるけれど誰もやらなかった命がけの人助けを行ったからに他なりません。
「3人がかりで1人をリンチ、みんなはただ黙って見てる。僕にはそれが許せないんだ」-キックアス
確かにデイヴはただのボンクラオタクにしか過ぎませんが、彼のとった行動は彼にしかできない行動でした。
「主人公がヒーローに憧れてヒーローになろうとするオタクである」、「主人公は空回りしながらも努力し続ける」点で「キック・アス」は「スパイダーマン:ホームカミング」と非常に類似しています。今回のスパイダーマンが制作の段階で「キック・アス」から影響を受けている可能性も否定できません。
ベンおじさんの不在
「スパイダーマン」と「アメイジング・スパイダーマン」を今回の「スパイダーマン:ホームカミング」と比較したとき、まず目につくのがベンおじさんの不在です。
サム・ライミ版でもマーク・ウェブ版でもベンおじさんはピーターの逃がした犯罪者に殺されてしまうのですが、彼の死はピーターがスパイダーマンになるきっかけになります。自分のせいでおじさんが死んでしまった責任感や罪悪感から、ピーターはヒーローとしての「大いなる責任」を自覚するわけです。
しかし「ホームカミング」では、設定でこそベンおじさんは死んだことになっていても劇中でおじさんの死が描かれていません。
ヒーローと通過儀礼
アメコミ映画でそれまでただの人間だった主人公がヒーローになるには、多くの場合主人公になんらかの通過儀礼が課せられます。
たとえば「アイアンマン」では、傲慢で未熟だったトニー・スタークはテロリストに拉致されるという試練を課せられ、そこで自分の会社の武器がテロリストの手に渡っている事実を知り改心します。そしてトニーは自分にしか使えない武器である鋼鉄のスーツを開発しアイアンマンとなるのです。
同じく、「スパイダーマン」「アメイジング・スパイダーマン」ではピーターはベンの死という通過儀礼を通してスパイダーマンスーツを身に纏うようになりました。
ですが「ホームカミング」のピーターはどうでしょう? 少なくとも劇中ではピーターは何の通過儀礼も終えておらず始めからスパイダーマンです。
未熟な若者は通過儀礼を通して一人前になりますが、逆を言えば通過儀礼を終えていない今回のピーター=スパイダーマンはスーツを着ていてもまだまだ未熟なヒーロー見習いなのです。だから「ホームカミング」のスパイダーマンは過去にないほど失敗続きでダサかったんですね。
ピーターの動機の変化
「スパイダーマン」や「アメイジング・スパイダーマン」ではピーターは「悪人を捕まえて街に平和をもたらす」「自身に与えられた力の責任を果たす」のような動機でスパイダーマンとなって活動します。
では「ホームカミング」でピーターがスパイダーマンになる理由はなんでしょうか?
もちろん今回のピーターだって正義感を持ち合わせた人物ですが、映画前半での彼の動機は「一人前のヒーローとして認められたい」といういかにも少年らしい承認欲求に違いありません。でも「認められたい」なんて思っているうちは認めてもらえないもの。彼の自警活動は空回りを続けます。
そんな未熟なスパイダーマンですが、映画が進むにつれて徐々に彼の動機は利己的な「認められたい」から利他的な「この人たちを助けなければならない」へと変化していきます 。
まさしくこの成長こそが「スパイダーマン:ホームカミング」のテーマです。
他のヒーローは通過儀礼を終えることでヒーローになりスーツを着るのに対し、今回のスパイディーはスーツを着てから通過儀礼に挑む、まさに本作はスパイダーマンの「補助輪外し」の物語なのです。
以上もゆるでした。ダサいダサいと連呼してしまいましたが映画自体はむしろバリバリスタイリッシュなので是非ご鑑賞あれ。
スパイダーマン、いつも服の下にピチピチのスーツ着てるし絶対臭い
— もゆる@映画ブログ (@moyuru2580) 2017年8月14日
「スパイダーマン:ホームカミング」に学ぶマーベルの絶対に外さないものづくりの法則
2008年の「アイアンマン」から自社スタジオ独自で映画製作を始め、今やハリウッド大予算映画の代名詞となったマーベル映画。
ピクサーと並んでハズレのない名作続きのマーベル実写映画はどのような思考で作られているのでしょうか?
「スパイダーマン:ホームカミング」で再確認したマーベルスタジオの外さない映画作りについて考えてみましょう。
目次
- 大前提:マーベル・スタジオは映画を外せない
- 狙うは「大衆」
- 大衆は「バカ」である
- 誰が見ても80点のクオリティを目指す
- とにかくテンポを重視する
- 毎回似たような作品でありながら細かな違いがある
- まとめ
大前提:マーベル・スタジオは映画を外せない
マーベルが制作しているような予算数億ドル越えの大予算映画が俗に「ブロックバスター映画」と呼ばれているのはご存じでしょうか。マーベルの実写作品はCGや大規模セットを多用しており、キャスティングも実に豪華で、そのため毎回数億ドルもの予算で映画を制作しているのです。例えば「シビルウォー/キャプテン・アメリカ」の制作予算は約2億5千万ドル(http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=marvel2016.htm)。2億5千万ドルあれば「君の名は。」が20本以上作れますね。
これだけの予算をかけて興行がズッコけようものなら関係者の首は「キングスマン」のあのシーンの如く飛びまくること間違いありません。
だからマーベル・スタジオは可能な限り興行的失敗のリスクを減らすような映画作りを心がけているはずです。彼らがどのように「外さないものづくり」をしているか考えてみましょう。
狙うは「大衆」
映画興行で最重要とも言えるポイントは「普段映画を見に来ない人にも見てもらう」ことにあります。大ヒット映画とは「年に数回しか映画を見ない人が見に行った映画」と同義なのです。
映画ブログなんてやってる映画鑑賞が趣味の暇人は宣伝なんてしなくても勝手に劇場に湧いてきます。だから映画に興味のない層に向けたアピールに映画会社は必死になるんですね(洋画のタイトルをやたらとダサくし変えたり、ポスターを過剰なまでにダサくわかりやすくしたり)。
1人の映画マニアに4回見てもらえるような映画よりも、4人家族に1回見てもらえる映画のほうがずっと作りやすいと思いませんか?
大衆は「バカ」である
「ブレイクするっていうのはバカに見つかること」と言ったのは有吉弘行ですが、この言葉は映画を始めとして様々な業界で通用する至言です。大衆を下に見ているように聞こえるかもしれませんが、この発言は「コンテンツが多くの人の目に触れる場合、そのコンテンツについてよく知らない(=リテラシーの低い)人がかなりの割合でいる」という風にも読むことができます。
少し抽象的になったので具体的な話で説明しましょう。例えば「スパイダーマン:ホームカミング」を劇場に見に来た人の内、はたして何割が「アベンジャーズ」や「シビルウォー/キャプテン・アメリカ」などの以前の作品を見たことがあるでしょうか? もちろんそれらの作品群を見ている人は多いはずです。でも中には当然いきなり「ホームカミング」を見に来たという人もいるはずですよね。
「スパイダーマン:ホームカミング」の制作陣は、アイアンマンやキャプテン・アメリカについて観客が十分な予備情報を持っていない可能性を考慮して映画を作ったに違いありません。実際予備知識なしで見ても本作は十分に楽しむことができるようになっています。
実に当たり前な話ですが、大衆ウケを狙うには誰でもわかるように作ることが非常に重要になってくるのです。
誰が見ても80点のクオリティを目指す
映画を点数付けするのはあまり好きではないのですが、私がマーベルの作品を点数付けするとしたら、そのどれもが80点前後の出来に思えます。
80点の映画とは言い換えれば「確かに面白い映画だけれども、今年一番ってほどでもない」と言いたくなる評価です。実際マーベルスタジオの作品は、興行成績こそ素晴らしいもののアカデミー賞などの賞レースではあまり見かけることがありません。
批評家やマニアから絶賛を受けた作品が大衆から評価されるとは限りません。そして賞レースでは批評家の票が大きな力を持っていても、興行においては批評家も一般人も同じ1800円の映画料金しか払いませんから。
批評家やマニアから「くだらないエンタメ映画」と言われず、大衆を満足させるのは並大抵のことではありません。マーベルやピクサーはやろうと思えばより底の深い作品を作れるはずですが、あえて間口を広げるためにシンプルなものづくりを意識しているのではないでしょうか。
「誰が見ても80点の作品を目指す」というのは何もわざと手抜きをしろなんて意味ではありません。最善の努力を尽くし、誰からも受け入れられる作品を意識した結果もたらされるのです。
とにかくテンポを重視する
マーベル実写映画が他の映画作品と一線を画しているのは、ストーリー進行のテンポの良さです。今回の「ホームカミング」と過去のサム・ライミ版「スパイダーマン」を比較すれば物語の進む速度が圧倒的に違うのが一目瞭然です。
サム・ライミ版ではピーター・パーカーがただのオタク少年から超能力を持ったクモ人間になるまでをじっくり描いたのに対し、「ホームカミング」ではそもそも映画が始まった時点でピーターは超能力を持っています。「ホームカミング」を見る観客はアクションシーンを待ち詫びてイライラすることがありません。
テンポの早さがもたらす一番のメリットは、観客の「飽き」防止でしょう。2時間以上もの間じっとしてるのは意外と集中力を使うものですが、マーベル映画はそれこそ息もつかせぬ展開で観客を楽しませ続けます。マーベル映画は全体の傾向としてどんどんカットを割っていて長回しが少ないのですが、これは明らかにテンポを意識しているためです。
またテンポが早いと脚本や設定上の細かな矛盾点などを自然に隠蔽できるメリットもあります。観客は映画のスジについていくのが精いっぱいで、「ここの設定はさっきのアレと辻褄が合わなくない?」など重箱をつつく暇がありません。スーパーヒーローもののようなバリバリのフィクションを受け入れさせるのにテンポの良さは不可欠なのかもしれません。
毎回似たような作品でありながら細かな違いがある
フィクションには「既知のお約束の利用によって読者の認知コストを減らす」戦略と「未知のものを導入して読者の興味を掻き立てる」戦略があり、それぞれをどこにどうブレンドするかが作り手の腕の見せ所だが、ライトノベルはもともと前者寄りかもhttps://t.co/XzuSJswr5a
— ultraviolet (@raurublock) 2017年8月7日
ヒーローものには「主人公がヒーローになる(もしくは元からヒーロー)→悪役が現れて悪事を働く→ヒーローが悪役を倒す」のような暗黙の定型があります。
九割九部のヒーローもの映画はこの定型の通りに物語を進行させます。「主人公がヒーローになったけど悪役が強すぎて倒せない」なんてストーリーは斬新ですが、そんな映画を見たい人はほとんどいないでしょう。
「アイアンマン」も「キャプテン・アメリカ」も「ドクター・ストレンジ」も普通の人間が何かをきっかけに世界を守るヒーローになる英雄誕生のお話です。マーベルはヒーローが生まれる話を何回も繰り返してきました。
普通同じようなお話を何度もされれば飽きてくるものですが、少なくとも私はマーベル映画に「またこのパターンか」とため息をついたりはしません。なぜならマーベル映画では登場するヒーローによって行われるアクションの性質が全く違うからです。
「アイアンマン」なら空を飛び回りビームで豪快に敵をなぎ倒しますし、「キャプテン・アメリカ」なら格闘戦中心のアクション、「アントマン」は小さくなる能力を最大限に生かした映像で……といった風にヒーローが違う時点で同じような物語でも違った映画として成立しているのです。
またアクション以外の面でも「ドクター・ストレンジ」ではクライマックスでヴィランを倒す際にかなり特殊な方法を使ったりと、とにかくマーベルはそれぞれの作品にその作品・ヒーローにしかないアイデンティティを付与しています。
「期待に応えて、予想を裏切る」はマーベルの得意技なんですね。
まとめ
以上で書いてきた項目をざっと並べるとこうなります。
- 儲けるには大衆ウケを狙え
- 大衆は「バカ」(情報リテラシーが不揃い)であると知る
- 誰が見ても80点のコンテンツを目指す
- テンポを重視
- 似たようなコンテンツを連発しながら、それぞれに細かな違いを作る
ここまで抽象化してしまうと一般論っぽくて少し退屈ですが、抽象化したからこそ映画製作だけでなく様々なものづくりで使えるハウツーになったということで許してください(笑)。
さて「スパイダーマン:ホームカミング」の話をあまりしていないような気もしますが今日の記事はこの辺にしておきます。また「ホームカミング」の感想記事もアップするのでお楽しみに。
以上もゆるでした。
ブログもツイッターも絶賛更新サボり中でしたがそろそろ復帰しますよ!
— もゆる@映画ブログ (@moyuru2580) 2017年8月6日
【感想】「カーズ/クロスロード」は宮崎駿に1000回見せたい傑作映画だったぞ
どうも、もゆるです。「マイティー・ソー バトルロイヤル」の予告で移民の歌が流れて映画館で叫びかけました。
昨日の「銀魂」に引き続き今日は「カーズ/クロスロード」をチェックして参りました。ネタバレ無感想とネタバレ有感想に分けてレビューをお送りします。
目次
あらすじ
「期待の新人、ライトニング・マックィーン」。彼がそう呼ばれた時代は既に遥か昔だった。
最先端の設備でトレーニングを積んだ高性能レーシングカーの登場によりマックィーンは窮地に立たされていた。
「ダメだマックィーン! 追いつけない! 追いつけない! どんどん抜かされていく!」
サーキット中に響く実況の声。マックィーンは負けじとアクセルを踏むものの、クラッシュし後続車を巻き込む大事故を起こしてしまう。
事故から復帰したマックィーンは心機一転トレーニングを始めるが新しくついたトレーナーとは馬が合わず、年のせいか走りは速くなるどころか遅くなっていくばかり。
ライトニング・マックィーン、復活なるか……
ネタバレ無レビュー
なんだこの映画は。
まるで「ロッキー」の2~5を映画一本の中に凝縮したかのような作品じゃないか。熱い、熱すぎる。目からオイル漏れが止まらなかった。劇場で隣に座っていたヤンママとビッグダディ+その子供たちがやたらうるさかったけども、全く気にせずボロボロ泣いてしまった。
何を隠そう僕は「ロッキー」シリーズが大好きです。いや、主人公が目的のために必死に努力する映画が大好物なんです(「リトル・ダンサー」とか、「セッション」とか)。それは僕自身が極端なまでの怠け者で「頑張る」のが苦手だからに他なりません。自分が努力できないから、他人の努力がもの凄く美しい行為に見えるんです。だから僕は「ロッキー」で泣くんです。
加齢のため(といっても車なので見た目上は同じ)遅くなったマックィーンが、テクノロジーの集合体のような新人に無残に破れ、リベンジを誓う。しかしいくらマックィーンと言えども年には勝てず、鍛えても鍛えてもタイムは縮まない。
この映画は中年の危機についての映画です。この映画でマックイーンが戦っている本当の相手は次世代機ジャクソン・ストームではなく、老化です。メインターゲットは子供なのに、ピクサーさんやってくれるじゃないですか。
ネタバレ有感想
※ここからは映画の核心部分に触れる文章があります。ご注意ください。
宮崎駿が泣いている。
僕の心の中の宮崎駿が泣いている。きっと本物の宮さんも泣いたんじゃないでしょうか。
クライマックスのレースシーンで、マックィーンはそれまで自身のトレーナーを勤めていたクルーズ・ラミレスを代走に出します。クルーズは元レーサー志望のトレーナーで、未だにレースに出場するのが夢だったのです。
トレーナーとしてマックィーンの厳しい修行に付き合ってきたクルーズの走りはプロレーサー顔負け、先行車を次々とゴボウ抜きにしていって、彼女は最後には1位のトロフィーを掴み取ります。
「能力の限界を自覚したマックイーンが現役を退き、若いクルーズのコーチになる」という結末は非常に象徴的と言えます。
「カーズ」1と2を監督したジョン・ラセターが退き、新人であるブライアン・フィーが本作のメガホンを取った事実とこの映画のストーリーは被ってる部分があるんですね。
ピクサーはできる新人にはどんどん大仕事をやらせます。宮崎駿が引退詐欺を繰り返し、後継者の育成にほとんど手をつけないのとは正反対です。
シリーズ第一作「カーズ」を見て宮さんは泣いたらしいけれど、なら「カーズ/クロスロード」を見た宮さんは何を思うのでしょうか。気になって仕方ありません。
この映画はジョン・ラセターが敬愛する宮崎駿へ送った、ある種のメッセージなのかもしれません。実際インタビューでラセターはこうも語っています。
「『カーズ/クロスロード』は、マックィーンがキャリアの後半で何をすべきかを考えようとする内容なんだ。彼はまさに人生の岐路に立たされているんだよ。宮崎さんは新しい映画を今作っていて、わたしたちはみんなそのことにすごく興奮している。きっと彼にはまだ伝えたい話がいっぱいあるんだって。マックィーンのように彼も走り続けるだろうね」
"マックィーンのように彼も走り続けるだろうね"の部分に微妙な含みを感じたのは僕だけでしょうか。確かにマックィーンは完全引退するとは言っていませんでしたが、今後レースで活躍するのは明らかにクルーズで、マックィーンはサポートに回るって終わり方だったじゃないですか。
宮崎駿を「カーズ」世界の車に例えると「もういい年で体の調子が悪いのに全力で走って次世代機ブッコ抜いて勝ちまくり」って感じでしょうか。今回のマックイーンとは真逆の方向性ですよ。
そして逆に「現役を続けながらも後進の育成を欠かさない」という意味では、押井守ってかなり本作のマックィーンと近いのかもしれません……。
そんなこんなで「カーズ」を語ってるのか、日本のアニメ監督を語っているのか、といった文章になってしまいましたが、この辺にしておきましょう。
まとめ
個人的にはシリーズ最高傑作だった「カーズ/クロスロード」、これから見に行かれる方には是非4DXをオススメします。乗り物の出てくる映画は4DXとスゴク相性がいいので。風を切りながらサーキットを走る爽快感を楽しんでみてください。
ジョン・ラセラーありがとう。ブライアン・フィーありがとう。
そして、ありがとう、ライトニング・マックィーン!
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以上もゆるでした。
「カーズ/クロスロード」、乗り物系映画は4DXとめちゃ相性いいのでオススメです。たぶんシリーズで一番レースシーン多い!
— もゆる@映画ブログ (@moyuru2580) 2017年7月16日
【宮崎駿】「カーズ/クロスロード」前におさらいしたい「カーズ」【ジョン・ラセター】
今週末よりシリーズ3作目である「カーズ/クロスロード」が公開されるピクサー長編アニメーション「カーズ」。
この記事で3作目の公開に向けて、大人も子供も楽しめる傑作「カーズ」の魅力について紹介したいと思います。
目次
- 「カーズ」
- 喋る車の物語
- 監督ジョン・ラセター
- あらすじ
- 宮崎駿を泣かせたアニメ
- 「カーズ/クロスロード」への期待高まる
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