【北野武】全作品解説part1~「キッズ・リターン」~【感想と考察】
どうも、もゆるです。
いきなりですが「アウトレイジ 最終章」の公開に先立ち、これから数回に渡って北野武監督作品を一作品づつ紹介していきます。順不同になりますがキチンと全作品について書くのでどうかお付き合いください。
それでは第一回は北野武のバイク事故からの復帰以降初めての作品である「キッズ・リターン」(96)です。
目次
あらすじ
不良高校生のマサル(金子賢)とシンジ(安藤政信)は授業にも出ず、毎日カツアゲをしたり喫茶店でダベったりと自堕落な生活を送っていた。ある日一念発起してボクシングを始めたマサルだが、才能を見出されたのはむしろ付き合いでジムに来たシンジの方だった。
自信を失いボクシングを辞めヤクザになったマサル、そしてボクサーとして着々と成長しつつあるシンジ。二人の青春の行く末は……
北野映画未経験の人にオススメ
北野映画と言えば「ソナチネ」や「アウトレイジ」のような極道モノのイメージが強いかもしれませんが、「キッズ・リターン」は高校生を主人公にした青春もので、極端な暴力シーンや意味のわかりにくい描写はそこまで出てきません。
ですが同時にこの映画にはカメラワークやカットの割り方、主人公の性格など北野武の作家性が強く出ています。だから「北野武の映画ってどれから観たらいいの?」と聞かれたら僕は迷わず「キッズ・リターン」をオススメします。例えるなら「本格中華が食べてみたいけど辛いのは苦手」という人に薦められる辛さ控えめの中華屋といった感じでしょうか。
ストーリーはあってないようなもので、主人公はシンジとマサルという名前の二人の不良高校生。シンジは北野映画の主人公にありがちな無口な男で、そのシンジの兄貴分が「マーちゃん」ことマサルです。
高校卒業後、ひょんなことからシンジはボクサーにマサルはヤクザの道に進んで二人は袂を分かちます。二人はそれぞれ自分の道を突き進んでいくのですが、そう上手くいくはずもなく……というのがおおよそのあらすじですが、あらすじだけでは北野映画の面白さは図り切れません。
徹底して映像で語る
映像で語るとは?
映画作りのセオリーのひとつに「映像で伝えられることは映像で伝えるべき」というものがあります。「見た目は子供、頭脳は大人、その名も名探偵〇〇ン」みたいにセリフで登場人物の設定や状況を紹介してしまうと、どうしてもダサくなってしまいます(〇〇ンは漫画・アニメなので成立しますが)。
そして映像で映画を語ることを率先してやっている監督がまさに北野武その人。「キッズ・リターン」を見てみてください、とにかく映像で語るのが上手い。
例えばこの映画、冒頭にシンジとマサルが校庭で自転車に二人乗りする有名なショットがありますが、授業中に校庭で二人乗りしてる映像を見せるだけで観客には二人がどのような関係でどのような学生なのかが一瞬で伝わります。そして映像で状況と設定を語った以上、もはや言葉による説明は蛇足にしかなりません。北野映画の登場人物が異様なほど寡黙で、沈黙のショットが多いのはセリフによる説明を徹底的に排除して映像で語っているからなんです。
映像で張られた伏線を読み解く快感
「キッズ・リターン」には映像で張られた伏線が無数に散らばっています。本作は一度だけでなく二度三度と見返して貰いたい映画で、見返すと映画あちこちにその後の展開を仄めかすヒントが配置してあるんです。
例えばシンジはジムでボクシングの反則技を覚えることになりますが、実は彼が反則を教えられる少し前のシーンで、他のボクサーがジムでその反則技を練習している姿が映し出されています。このように映像表現による伏線を用いて段階的に語っていくことで、映画はより地に足のついた説得力のあるものとなっていきます。
もうこの映画一本見るだけで北野武という監督がいかにクレバーで、いかに計算づくで映画を撮ってるか一目瞭然ですよ。芸能人が片手間で撮った映画だと思ってナメてる人がいるかもしれませんが、北野武の映画はどう見ても「本物」です。
若者の心理を見抜く力
監督本人もインタビューで発言していることですが、この映画には「登場人物の両親や家庭が一切出てこない」という特徴があります。「キッズ・リターン」にはマサルの家の玄関が数回出てくるだけで、あとはもうどの登場人物の親も家族も出てきません。
親と子の断絶は北野映画ではそこそこ出てくるテーマです。例を挙げれば「菊次郎の夏」では小学生の男の子が菊次郎(ビートたけし)とひと夏の思い出を作る映画ですが、菊次郎は男の子の父親ではありません。男の子は親に捨てられておばあちゃんに引き取られているという設定なんですね。また北野武監督作品ではないものの、出演作であり北野と交流のある深作欣二の「バトル・ロワイヤル」も親世代と子供世代の分離を描いた作品と言うことができます。
ライトノベルによく見られる親と子の断絶
登場人物の両親が登場しない、といえばゼロ年代以降急速にその勢いを伸ばした「涼宮ハルヒの憂鬱」や「とある魔術の禁書目録」に代表されるライトノベルの作品群では主人公の両親が登場しなかったり、あるいは登場しても影が薄かったりする傾向が顕著です。
「ラノベ主人公に親は要らない」という定説がありましてね。正直邪魔なんですよ。悪いけど、お亡くなりになっているか、海外にでも行っていて貰っています。
— 時雨沢@キノ21巻は10月! (@sigsawa) 2013年6月11日
ゼロ年代以降にラノベ・アニメ畑で加速する親と子の断絶を、96年という早い段階で察知して映画内に仕込んでいた北野監督の感覚はさすがとしか言えません。
なぜシンジはダメになってしまったのか
※ここから映画の後半の場面に言及するのでネタバレ注意
親と子の断絶というテーマを踏まえて「キッズ・リターン」を見ると、なぜシンジがモロ師岡演じるダメボクサー林に付け込まれてボクシング引退まで追い込まれたかが見えてきます。
シンジには主体性がありません。ボクシングもマサルに勧められたからなんとなく始めただけですし、マサルが辞めるた時には連れだって辞めようとしていました。彼には自分が何をしたいかがわかっていないんですね。
主体性がない以上、シンジは自らの行動の規範となる人物を必要とします。だからシンジはマサルを兄貴分として慕いいつも一緒にいました。落ちこぼれで親にも教師にも相手にされないシンジにとって唯一自分の傍にいてくれるのがマサルだったわけです。だからシンジはマサルがどんなにダメな人間で、カツアゲしていても酒を飲んでいても付き合い続けていたのでしょう。
ところがヤクザになったマサルはシンジの前から消えてしまい、一人では生きられないシンジはすがるように林に依存していきます。ジムのトレーナーや会長を慕って付いていくことはシンジにはできませんでした。その理由はトレーナーや会長はシンジを、「強いボクサーという」条件付きでしか承認してくれないからではないでしょうか。マサルや林は、シンジがどんな状態の時でも常に彼を承認してくれる存在です。
シンジは自分をリードしてくれて、かつ無条件で承認してくれる人物……つまり親代わりの存在を求めたがために堕落の道を歩んでしまった。以上が僕なりの「キッズ・リターン」の読み方です。
「まだ始まっちゃいねぇよ」
「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねぇよ」
「キッズ・リターン」ラストのこのセリフは、希望ともとれれば絶望ともとれる名台詞です。ぼく自身は「まだ始まったばかりだよ」ではなく、「まだ始まっちゃいねぇよ」である点がこのセリフのミソだと思っていて、高校を卒業して尚スタート地点に立つことすらできず、かつその事実をポジティブに受け止めてしまうマサルにはどうしてもマイナスのイメージを抱いてしまいます。
あなたはこのラストのセリフについてどう考えますか?
ご意見・ご感想のある方はぜひコメント欄やtwitterなどに一言くだされば幸いです。
以上もゆるでした。
筋トレでもやろうかと思い立ってググってみるものの、どのサイトも提案するメニューやトレーニングがバラバラで、何と何を何回やればいいのかが全く決められない。
— もゆる@映画ブログ (@moyuru2580) 2017年8月17日
「これさえやっとけばええんじゃ」的な黄金のメニューの開発が待たれる