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【ネタバレあり】「哭声 コクソン」のテーマは「信じる」こと?

「コクソン」は非常に難解な映画で、正解と言える解釈がない映画です。そしてこの記事で述べるのはあくまで私の見方で分析された「コクソン」です。

しかし、私の解釈が読者のみなさんが自分なりの映画の読み方を持つ手がかりになれば幸いです。

目次

 

大前提…「コクソン」は観客を「惑わせる」映画である

既にご覧になられた方ならおわかりでしょうが、この映画はどれだけ集中して見ても、意味がわからない、頭に?マークが浮かぶような場面が多々あります。

そのような「惑わせる」シーンは、ナ・ホンジン監督の意図したものに違いありません映画秘宝2017年4月号のインタビューを参照)。

そして同インタビューで監督はこうも言っています、「この映画はどのように解釈されてもいいようにデザインされているんだ」(正確な引用ではありませんがニュアンスは合っているはずです)。

観客を混乱させる意志を持って撮られた映画なのですから、見ている私たちが意味がわからなくなるのは当然です。

しかし同時に「コクソン」は、観客の多様な見方を肯定する映画でもあるのです。

映画秘宝 2017年 04 月号 [雑誌]

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筆者が読み取った「信じる」というテーマ

タイトルにもある通り、私自身が「コクソン」から読み取ったのは「信じる」というテーマです。

より具体的に言い換えれば「霊的存在は信じ方によって神にも悪霊にもなり得る」といったところでしょうか。

それでは、如何に私がこの解釈に辿り着いたかを解説していきましょう。

解釈のポイントとなるのは二つ、一つ目が國村隼演じる謎の男が出てくるラストの洞窟のシーン、二つ目が謎の女ムミョンについてです。

またもう一つ前提として述べておきたいのは、監督のナ・ホンジンはクリスチャンであるということ。「コクソン」にキリスト教のモチーフが多数登場するのは偶然ではないんですね。

謎の男はキリストか悪魔か?

まずは國村隼演じる謎の男についての話から始めましょう(以下“男”と表記します)

映画クライマックス、助教が“男”の家の近くにあった洞穴を訪れると、そこには死んだはずの“男”がいます(復活している時点でキリストを匂わせている)。

このシーンで目を引くのは、“男”の手に聖痕があることと、その後“男”が悪魔のような見た目に変化することでしょう。

聖痕というのは、キリストが磔刑に処された際にキリストの体につけられた傷を指し、聖痕が“男”の体にあるのは彼が「善」の存在(聖人)であることを象徴します。

一方で悪魔はご存じの通りキリスト教圏での「悪」の象徴です。

つまり洞窟のシーンで“男”は「善」と「悪」両方の存在である可能性を持っていることが示唆されています。ここまではキリスト教に多少の造詣があれば簡単に読み取れますね。

そして、ここからが肝です。

それまでのシーンでは“男”は坊主の着る袈裟のような着物を身に着けていますし、彼の家や洞窟にある儀式のための祭壇には、キリスト教的なモチーフは見られません。

ではなぜ“男”は洞窟のシーンでいきなりキリスト教における象徴的存在に姿を変えたのでしょうか?

答えは洞穴で“男”と対峙したのがキリスト教徒である助教だったからではないでしょうか。

つまりこういうことです。キリスト教の世界観を信じる助教“男”を見たとき、“男”を「善」と信じたなら彼は聖人に見え、また「悪」と信じた場合逆に悪魔に見える。

また洞穴で“男”は助教に「お前はもう私を悪魔だと思っているのだろう?」といった発言をしています(台詞は正確ではありませんが)。この台詞も「信じる」ことが助教にとっての“男”像に影響をもたらしていることの根拠になります。

以上の理由から私は「“男”は彼を見る者の思い込み(信じ方)によって神にも悪霊にも姿を変える」と解釈したのです。

ムミョンはなぜ主人公を殺さなかったか

主人公ジョングの元にたびたび現れる謎の女ムミョン(ムミョンとは韓国語で「無名」を意味する言葉、つまり日本で言う「名無しの権兵衛」のようなものでしょう)。

「コクソン」の劇中で私が一番疑問に思ったのが、「祈祷師はムミョンに近づいただけで死にかけたのに、ジョングは近づいてもなんともないのは何故? ジョングを引き留めたいなら殺せばいいじゃん」という疑問ですが、この疑問についても信仰の観点から考えれば説明がつきます。

まず祈祷師は常日頃から神や悪霊という存在に触れる存在です。なので必然的に祈祷師は神や悪霊の存在を強く信じているはずです。

対するジョングは一般人、いくら現実で怪奇現象が起きていても祈祷師に比べれば霊的存在を信じる度合は低いでしょう。

ここで私の立てた仮説は、「悪霊の存在を確信している祈祷師だからこそ、悪霊の影響を一般人より強く受けてしまう」というもの。

この仮説は、信じることが霊的存在のバロメーターを変えるという点で、前章で述べた「信じ方次第で霊的存在は悪魔にも聖人にもなる」というのと本質的に似通っています。

だからこそ私は「信じる」という行為がこの映画全体を一巻する主題だと考えたのです。

まとめ

「信じる」という言葉は何も宗教的な意味合いだけを持っているわけではありません。特定の政党や思想を支持するのもまた「信じる」です。

何が真実なのかが曖昧になっているのが、ポスト・トゥルースの時代と言われる現代社会。そのような時代だからこそ「コクソン」や「沈黙-サイレンス-」のような「信じるとは何か」を問いかける映画が生まれたのかもしれません。

本作はある存在が「善」と「悪」の間で揺れ動く様を映し出した作品ですが、現代社会もまた「善」と「悪」の線引きが難しい(むしろ不可能)世界ですし、それを考えると「コクソン」は現代社会を生きる私たちの混乱をそのまま具現化したような映画だとも言えます。

「コクソン」の解釈に正解が無いのはその意味では当然でしょう、なぜなら私たちの生きる現実の世界には絶対的正解など存在しないのですから。

さいごに

私はまだ「コクソン」を一度しか鑑賞していないため、本編について言及している部分に間違いがあるかもしれません。間違いを発見された方はぜひコメントなどでご一報ください。