「ラ・ラ・ランド」を鑑賞後、どうしても見てほしい「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
泣けないほどに悲しい映画
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はまさしくそんな映画です。
みなさんどうも、読者登録数もアクセス数も伸び始めて大変光栄です。
「ラ・ラ・ランド」見ましたか? 私はCMを見るたびリピートしたい欲を揺さぶられる毎日を過ごしております。
今日紹介するのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、落ち込む映画界のマイク・タイソンですよ、これ。
この記事では「ラ・ラ・ランド」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の持つ思わぬ共通点について考察し、あわよくば読者のみなさんになかなか見る機会の無いド鬱映画を見てもらおうと思います。
もくじ
あらすじ
チェコ移民のセルマ(ビョーク)は、息子のジーンと二人で慎ましい暮らしを送っていた。工場で働くセルマは目の病気を患っており、彼女の視力は日に日に低下している。
そして彼女は知っていた、この病気は遺伝性だと。ジーンの視力が失われる前に手術をするため、セルマは見えない目で働き続ける。
手術費が溜まりつつあったある日、何者かによって貯金が盗まれてしまい……
泣けないミュージカル映画
これは私の主観に過ぎませんが、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は泣けません。
なぜなら今作はハリウッドお得意のおあつらえ向きな泣かせ演出なんて、一切使わないからです。でも「ダンサー~」は猛烈に悲しい。
「泣かせ」にコーティングされていない剥き身の悲哀がこの映画には詰まっています。
そしてもう一点特筆するべきは、「ダンサー~」が紛れもなくミュージカル映画であることでしょう。
この映画は現実世界とセルマの空想の世界を行き来するような作りになっていて、現実の場面は手持ちカメラのブレッブレで茶色く霞んだような映像で語られるのに対し、セルマの妄想の世界を複数の固定カメラで撮影した豪華なミュージカルとして見せるのです。
ではなぜ一見正反対のように思える「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が「ラ・ラ・ランド」と結びつくのでしょうか?
ミュージカルは嘘くさい、妄想としてのミュージカル
映画という「現実を模倣して作り上げる創作物」にとって、いきなり登場人物たちが歌い踊りだすミュージカルという形式は相性が悪く、時に「嘘臭い」という印象を与えます。
しかしながら今回引用している2作品は、どちらもこの「嘘臭さ」を上手く利用しています。
例えば、「ダンサー~」のミュージカルシーンは、全てセルマの妄想という形で表現されます。
「映画の中の現実」で登場人物が唐突に歌いだせば違和感を生みます、しかし妄想を描写した場面ならば「いきなり歌ったり踊ったり」していても不自然ではありません。
つまり2作品はミュージカルに付き纏う「いきなり歌って踊りだすという嘘臭さ」を取り払うため、ミュージカルを登場人物の妄想(夢)という形で表現したのです。
妄想としてのミュージカルを描いている、これが第一の共通点です。
選択に伴う痛み
「ラ・ラ・ンド」ラストで、セブとミアには一緒にいるか別れるかという選択を突きつけられ、結果的に二人は離れ離れになってそれぞれの夢を叶える道を選びました。夢を叶えた代償は、セブとミアの愛です。
そして「ダンサー~」でも、セルマは「息子の視力」か「もうひとつのセルマにとってかけがえのないもの」のどちらかを選び取ることになります。
どちらの映画も「選択に伴う痛み」を描いている、これが第2の共通点ですね。
同じ内容を正反対の手法で語る
ここまで読んでくださればわかる通り、「ラ・ラ・ランド」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は描かれているテーマに重なりがあります。
そして興味深いのは、テーマが限りなく似ていながらも映画としての語り方が全く違う事です。
「ラララ」はとにかくアッパーに、見ている者全てを幸せにし、「ダンサー~」はダウナーもダウナーで、観客の気分を垂直落下させます。
こんな風に、映画というのは多様な語りができるんです。今回紹介した2作品はそれをよく示してくれます。
だからこそ、「ラ・ラ・ランド」を鑑賞された方には、頑張って「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も見てほしいのです!
まとめ
間違いなく良い映画なんですが「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は本当に気分の沈む作品です。
だから私はこの映画を、肉体・精神的に疲れている方にはおすすめできません。しかし、もしあなたが現実に真正面から向き合いたいのなら、私は自信をもって「ダンサー~」をオススメできます。
セルマにとってミュージカルという虚構が現実を生きる助けになったように
映画という虚構があなたの人生の支えになることを願って