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「ラ・ラ・ランド」前に絶対見ておきたい「セッション(Whiplash)」

「次のチャーリー・パーカーは何があっても挫折しない」

アカデミー賞ノミネート史上最多タイの「ラ・ラ・ランド」がいよいよ明日から日本でも公開されます。

若手監督のデイミアン・チャゼルは(自主製作を除けば)「ラ・ラ・ランド」以前には一本しか映画を撮っていません。その映画こそ若き巨匠デイミアン・チャゼルの実力を世界に知らしめた名作「セッション」です。

この記事では、原題「Whiplash」の意味、主人公と鬼教官のキャラクターについて、そしてラストシーンの解釈について述べようと思います。

あらすじ

音楽大学でジャズドラムを学ぶニーマンは過激な指導で有名なフレッチャー教授にスカウトされ、彼のスタジオバンドに招待される。

フレッチャーの指導はニーマンが予想だにしないほど過酷で、認められないもどかしさにニーマンは苛立ちを感じ始めていた……

原題「Whiplash」の意味

今作の日本語タイトルは「セッション」と訳されていますが、原題は「Whiplash」です。Whiplash(むち打ち)というタイトルには多元的な意味合いがあり、大きく分ければ3つに分解できます。

  • 劇中で繰り返し演奏されるジャズの曲名「Whiplash」
  • ドラムを高速で叩くのを、むちを打つことに例えている
  • 鬼教官が主人公に「むちを打つ」ようなしごきをくわえる

「セッション」というタイトルではこのような多義性を表せておらず、少し不満にはなりますが、原題には映画を見ていないとタイトルに秘められた意味がわからないという欠点もあります。

なのでタイトルで音楽を題材にしていると読み取れる「セッション」も悪くはないと思います。ただ、やはり「Whiplash」の方が味があっていいですよね。

オレオレ症候群という病

血豆が潰れようが、大怪我をしてようが、ストイックにドラムを叩き続ける主人公ニーマン。彼は熱心でありながらも強い承認欲求を抱えており、どれだけ努力をしても実力が認められないことに不満を感じています。

フラストレーションを溜めこんだニーマンは、食事会で親戚の大学生に対して強烈なマウンティング発言をします。「俺は一流の音楽大学で一軍で主奏者。お前は三流大学じゃないか」と語る彼の姿は痛々しくて見ていられません。

また付き合っていた彼女に対して、「練習の邪魔だから」と一方的に別れを切り出しもします。

ニーマンは典型的な自己中人間です。オレオレ症候群です。しかし成功者の中には自分本位な人間が一定数いるのも事実です。そしてこの映画はオレオレ症候群にかかっている人物を必ずしも否定していません。フレッチャーもまた自分を世界の中心に置いているタイプの人間です。

鬼教官の功罪

暴言、暴力、器物破損など教育におけるタブーを次々と犯すフレッチャーはこの映画のもう一人の主役と言ってもいいでしょう。

フレッチャーの言動については映画の公開前から物議を醸していましたが、僕は彼の厳しい指導には彼なりのモラルがあったと考えます。

そもそもフレッチャーは自らのスタジオバンドに入れる人材を厳しく審査しています。彼の審査基準は、技術よりも熱意です(死んだ生徒の昔話から読み取れる)。

彼は本物の演奏技術を身につけるには並外れた努力・練習が必要だと知っていたからこそ、それに耐えられる生徒を集めたのでしょう。

さらに一度スカウトした生徒も素質がなさそうならすぐさまクビにする。これは冷酷な行為にも思えますが、素質のない相手に過酷な練習を課すのは意味の無い苦痛を与えるだけです。

「次のチャーリーは何があっても挫折しない」とフレッチャーは劇中で言いました。挫折しない情熱を持った人間ならしごきには耐えられるし、耐えられないのなら出て行ってもらえばいい、というのが彼の信条だったのではないでしょうか(もちろんその信条はポリティカル・コレクトネスの観点では間違っていますが、彼の個人的な考えです)。

 ※ここから先は深刻なネタバレがあります

ラストシーンを解釈する

「セッション」のラストシーンは可能な限り台詞を入れず、演奏を主体として撮影されています。なので一度目に鑑賞した際は怒涛の展開のあまり混乱して、一連のシークエンスの意味がいまいち理解できませんでした。

しかし二度目の鑑賞でようやくある程度ニーマンとフレッチャーの関係や、彼らの感情の動きについて自分なりの解釈ができました。

ラストシーンはざっくり3つの流れに分かれています。

まずは自分だけ楽譜が用意されておらずニーマンが困惑する部分。ここから読み取れるのはフレッチャーがニーマンを憎んでいて、コンサートでの演奏はニーマンへの復讐のためのものだったということです。

そして次にニーマンが一度舞台袖に戻って父と抱き合った後再び舞台に戻り、フレッチャーを無視して一人でドラムを叩き始める場面。この場面ではニーマンとフレッチャーの激しい対立が描かれます。フレッチャーはニーマンを罵り、ニーマンも演奏で威嚇し返します。

そしていよいよニーマンが散々練習してダメ出しされた倍テンをやってのけると、フレッチャーは罵るのをやめて指揮を始めます。先ほどまでの対立はもはや解消され、ここから二人は指揮者と演奏者として協力しひとつの音楽を築き上げます。

「セッション」のラストシーンは、はじめはただニーマンを憎んでいたフレッチャーが、彼のソロを聞くうちに彼の実力を認め、最終的にニーマンとフレッチャーの〈セッション〉が始まる、という場面だったのです。