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「TAP THE LAST SHOW」は日本版「セッション」になり得たか?【レビュー・感想】

目次

あらすじと概要

 どうも、もゆるです。

「相棒」の右京さんでお馴染みの俳優水谷豊が監督・主演を務めた「TAP THE LAST SHOW」が6/17よりロードショー、ということで早速劇場にて鑑賞して参りました。

実は私、邦画にはイマイチ食指の動かないタチなのですが、本作は予告を一見してタップの打ち鳴らすリズムと「魂が鳴り響く、ラストダンス24分」という謳い文句に惹かれ映画館に足を運びました。

トーリーはごくシンプル。ショー中の事故で引退を余儀なくされた元天才ダンサーの渡(水谷豊)は、旧友である劇場支配人の毛利(岸部一徳)から閉館前最後のショーの演出を依頼される。堅物な渡は怒鳴り散らしながら才ある若きダンサーを選び抜き、来たるラストショーに向け稽古を始めるが、至る所で問題が発生し始め……と「相棒」の右京さん慣れしている人には水谷豊の頑固ジジイ演技がかなりショッキングな映画になっています。

「セッション」との類似点

鬼教官ものでラストが凄まじい映画といえば、やはり連想されるのは「ラ・ラ・ランド」で一世を風靡したデイミアン・チャゼル監督の「セッション」です。あちらはビッグバンドジャズを題材にして、主人公を鬼教官にしごかれる生徒側に置いているという違いはあるものの、タップもある意味打楽器ですし2つの作品はかなり近いように思えました。

「セッション」は鬼教師フレッチャーの内面をあえて描かなかったため、フレッチャーの指導が持つ理不尽さがより強調されていましたが、観ている側としては鬼教官がなぜ厳しいしごきを生徒に課すのかを知りたい部分もありました。

なので私は「TAP」が「セッション」の視点違いバージョンのようなつもりで見に行ったのですが、蓋を開けてみれば本作はデイミアン・チャゼルの「セッション」とは遠い作品でした。

 

実はそれほど厳しくない水谷豊

いや、勝手にこの映画を日本版「セッション」と期待した私が悪いのですが、別に本作の水谷豊はフレッチャーほど鬼ではありませんでした。

それこそフレッチャーはシンバル投げるわ椅子投げるわで、キレると収集のつかない男でしたが、「TAP」の渡は怒っても精々怒鳴るぐらいです。

それに渡のしごきは彼の計算の内のようで、怒鳴りが効果的でない相手には怒鳴らずに対応したりと巧妙にアメとムチを使い分けています(それが渡の指導者としての長所なんでしょうが)。

フレッチャーが私たちに凄まじいインパクトを与えたのは、鬼教官ものにありがちな「とにかく厳しかったけど、実は生徒のことを思ってくれてたんだ(目には涙)」みたいな安い演出を拒否し、ひたすらムチを奮い続けていたためです。

渡は良い指導者でしたが良いキャラクターではありませんでした。それはフレッチャーが最悪の指導者でありながらも最高のキャラクターだったことと対照をなします。

まずこれで、「セッション」と「TAP」第一の共通点に思えた「鬼教官」が無効化されました。

ラストダンスを邪魔するドラマ

「TAP」は役者に積極的にダンサーを起用しており、ダンスシーンへの徹底したこだわりが見られます。さすが水谷が40年来構想を温め続けていただけあって、生半可な出来ではありません。

しかし、肝心のタップを安っぽいわりに尺を取りまくる人間ドラマが邪魔しているのには心底ガッカリさせられました。

本作の構成は「七人の侍」よろしく仲間集め→準備→本番の三幕構成になっているのですが中盤の準備パートに入った途端、貧乏、吃音、介護、過保護な親、妊娠、病気と登場人物たちの抱える問題が次々浮上してきます。

あまりにも多くのドラマを展開するため徐々に映画は群像劇の感を帯びはじめるものの、個々の問題が有機的に絡まり合って最終的に一気に解決……したりせず、そもそも解決すらしているのかしてないのか曖昧なまま映画はラスト24分のダンスシークエンスへと突入していきます。

さて、いよいよラストダンスが始まり安いドラマから解放されたかと思いきや、ここにきて更にテレビドラマ的なチープな演出が続きます。

タップのカットはいい。でもタップのカットの合間に定期的に観客の顔を映すんですね。感動して泣いてる人とか映しちゃう。しつこく挟まれる観客の反応のために、タップが生み出す勢いは著しく削がれてしまいます。

「セッション」の息もつかせぬラスト10分の演奏シーンはひたすら舞台の上だけを映します。これでもかと言わんばかりに続くニーマンの演奏、セリフはほぼなし、彼の演奏が醸す狂気はスクリーンを越えてこちらにも伝わってきます、まさに「向こう側の世界を垣間見る瞬間」です。見ている父親の顔が大写しになるカットも一度だけ挟まれますが、そのワンカットには大きな意味合いが込められています。

「TAP」も本当に観客を「向こう側の世界」に連れて行きたいのなら、無駄を削いでタップを集中的に見せるべきだったのではないでしょうか。

卓越した人物描写

ここまで批判中心の語りが続きましたが、本作には評価されるべき部分も多いにあります(映像は全編を通して安定していますし、プロダンサーの皆さんの演技もプロ顔負けです)。

中でも特筆して賞賛できるのは、ちょっとした映像やセリフだけでされるスマートな人物描写です。

例えば冒頭で岸部一徳演じる毛利が渡にコーヒーを差し入れに行くシーン。自分と渡の分で二杯コーヒーを買っていった毛利ですが、渡の家に着くや否や自分のコーヒーをシンクに捨てそのコップに水を注ぎ薬を飲みます。

せっかく640円出して買ったコーヒーを捨てて水で薬を飲む、このごく短い行動は毛利の「渡への思いやりと金遣いの荒さ」と「何らかの病気である」ことを実に端的に表しています。

また吃音持ちのダンサー純のどもりも単なる記号で終わらせないために、一工夫が加えてあります。吃音の人には「言いたいのに言えない言葉」があり、なんとか言えない言葉を表現するために言い換えて喋る、という話を聞いたことがあったのですが、実際劇中で純は「デュエット」がどうしても発音できず最終的に「同時に2人で踊るパート」と言い換えていました(セリフは正確ではありません)。

細かな言動による人物描写の巧みさは監督である水谷が俳優としてキャリアを積み上げてきたからこそ成しえたものでしょう。

次回作への期待

ドラマ部分に問題はあれど、初監督作品として「TAP」は高水準な仕上がりだったのではないでしょうか。今回は成功した部分と失敗した部分がかなりハッキリと別れていましたが、それは次回作以降で弱点を補い得るということでもあります。「夢見んのはこれから」ですよ!水谷監督!(何様だよ)。

そんなわけで「TAP THE LAST SHOW」、タップの踏めるビートたけしが出演していなかったのがちょっぴり不満でしたが(私だけ?)、水谷豊の張り切りっぷりを見たい方はぜひ劇場にどうぞ。

以上もゆる(@moyuru2580)でした。