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ポスト・トゥルース時代のアカデミー賞と「ホワイト・ヘルメット」の感想

波乱の第89回アカデミー賞

89回アカデミー賞作品賞は、異例の「オスカー像渡し間違い」というハプニングの末、黒人少年の成長物語「ムーンライト」が受賞しました。作品賞は「ラ・ラ・ランド」濃厚かと思われている中での大逆転は、白人中心のオスカーに一石を投じる結果となりました。

作品賞以外にも有色人種の受賞が見られ、マイノリティーに対する意識はやはり強くなっているのかと思われます。長編アニメ賞の「ズートピア」も訴えようとしているテーマはまさしく多様性の肯定です。

普通の人生では体験できないことを、疑似的に体験できるのが映画の売り。

制作者が多様性に富めば、それだけ撮られる作品のバラエティーも広がるはず。アカデミーの意識改革は今後の映画業界全体に大きな影響をもたらすでしょう。

短編ドキュメンタリー賞受賞「ホワイト・ヘルメット」

さてここからは短編ドキュメンタリー賞を受賞した「ホワイト・ヘルメット」の感想を語ります。

タイトルにもなっているホワイト・ヘルメットとは、シリアで活動する市民救助隊を意味し、このドキュメンタリーはホワイト・ヘルメットの救助活動に密着し、彼らの救助活動を記録したものです。日本ではNetflixで視聴可能となっています。

ホワイト・ヘルメット(「」でくくっていないのは組織そのものを指しているからです)は中立を謳いながらも反体制側の支配地域でしか活動していない点や、救助活動の記録がやらせなのではないかという疑惑から批判を受けてもいます。

しかしながらそれは、このドキュメンタリーを見ない理由にはなりません。「やらせだから見ない」なんて言う人は、ただ悲痛な現実から目を背ける理由が欲しいだけでしょう。

もともとドキュメンタリーは、どれほど中立を意識してもある程度の思想や恣意性が入り込んでしまいます。それは映画制作は必ず、「撮影」と「編集」という極めて恣意的で意識的な作業を必要とするからです。

ドキュメンタリーを見る際は、たとえどんなドキュメンタリーであっても僕らはそこで語られていることを鵜呑みにしてはいけません。ドキュメンタリーとは現実を映した映像作品ですが、だからと言ってドキュメンタリーで語られていることが事実だとは限らないからです。

命がけで撮影された空爆現場

「ホワイト・ヘルメット」という40分間の映像の中で、シリア市民の恐怖を最も象徴しているのは爆撃の場面です。

遥か頭上を飛んでいる小さな機影、青空を真っすぐに飛ぶそれは地上から見れば虫のようにしか見えません。ですが市民たちは爆撃機をエンジン音だけで察知し、一斉に逃げまどいます。そして数秒後舞い上がる黒煙。

何の罪もない人の頭の上に、いきなり爆弾が落ちてくる理不尽さが、ごく短いカットに凝縮されています。

守ることの無力さ

鑑賞後、痛烈に感じるのはホワイトヘルメットとシリア市民の非力さ、そして無力さです。

非武装組織のホワイトヘルメットがどれだけ命がけの活動を続けても、シリア政府は痛くもかゆくもありありません。爆撃はいつまでも続けられるのでしょう。

また幸いにも人命は救助できたとしても、家を失った人々の暮らしは絶望的です。

守ること、治すことは「破壊」の何倍も難しい行為です。圧倒的な力の前にシリア市民はどうすることもできません。

そんな状況を見て僕が感じたのは怒りです。この怒りはシリア政府側の怒りであると同時に、平和な国の平和な家でソファに座ってくつろぎながら他人の地獄を見ている自分への怒りでもあるのでした。