ブログリニューアルにあたって
みなさんこんにちは、はじめましての方ははじめまして、もゆる(@moyuru2580)です。
2016年1月にオープンしたこのブログですが、開設から半年ほど経った7/1にリニューアルすることになりました。リニューアルに伴いブログタイトルも「“ほぼ”デイリーシネマ」から「Walking Pictures」に変更。ほぼデイリーどころかほとんど週刊ぐらいまで更新頻度が落ちてましたからね。
リニューアルにあたって何故わざわざこんな記事を書いたかといえば、それはブログの運営方針を少し変えたからです。
書き手について
まず当ブログの運営・執筆(なんて言うのは大袈裟ですが)をしているぼく自身について少しお話するべきでしょう。
これまではブログで自身のパーソナリティや所属について書いてきませんでした。別に身バレしたら困るとかそんなワケではなかったんですけど、なんとなく書く必要も無かったので書いてなかったんですね。
だけどやっぱり、「書き手がどんな人間か」って文章を読む時に重要じゃないですか。だからこれからは書き手であるぼく自身がどんな人間なのか、ある程度ブログ上でも明かしていきたいと思います。
と、まあ正体を明かすなんて言っても今書くことは「ライター志望の京都の大学生で四六時中映画ばっかり見てる(最近女の子と「美女と野獣」を見に行った帰り道にフラれた)」程度しかないんですけれど。
当ブログの運営方針について
映画ブログ「Walking Pictures」の主目的は、「読者のみなさんの映画体験を少しでもいいものにする」ことに尽きます。
今週末の映画はどれを見に行くべきか、どこが見どころか、この映画はこんな視点で見ると面白い、あの映画のあのシーンには〇〇という意味が込められているetc……と、映画を楽しく見るための補助線を引くような記事が書ければと思っています。
末永くよろしくお願いします
以上、短くなりましたが「Walking Pictures」のイントロダクションを終えさせていただきます。こんなカスみたいな弱小ブログにほんのちょっとでも興味の湧いた方がいれば、はてなの読者登録、Twitterフォロー、ブックマークなどよろしくお願いします。
ブログリニューアル! 以外と早めにできました。「Walking Pictures」をよろしくお願いします。
— もゆる (@moyuru2580) 2017年7月1日
「ハクソー・リッジ」前におさらいするメル・ギブソン監督作品と彼のマゾヒズム
離婚、DV、差別発言……スキャンダルが次から次に飛び出すハリウッドのスキャンダル王メル・ギブソン。多くの映画ファンがメルギブの映画を観て、人間性とその人のこなす仕事が大して関係ないことを学びました。
そしてスキャンダル続きで不調だった彼が十年ぶりに送り出した最新作「ハクソー・リッジ」が日本でもいよいよ6/24よりロードショー!
この記事は「ハクソー・リッジ」公開に合わせ、メル・ギブソンのメの字も知らない方に向け彼の魅力を知ってもらうためこれまでのメル・ギブソンの経歴を紹介し、彼の作品を一貫する要素「マゾヒズム」について考察します。
目次
メル・ギブソン:オリジン 俳優時代
この記事は監督としてのメルギブを紹介するもので、俳優メル・ギブソンのエピソードをだらだら書くつもりはありません。しかし、やはり彼の育ちの国オーストラリア発の映画「マッドマックス」にて主演を務めブレイクしたことは特筆しておくべきでしょう。彼の濃ゆーい顔は人々に「マッドマックス」と共に強く記憶され、その後ギブソンはハリウッドへと進出します。
「リーサル・ウェポン」シリーズなどでハリウッドでも俳優として成功を重ねた彼は93年に主演も兼ねた初監督作品「顔のない天使」を制作、映画監督メル・ギブソンの誕生です。
「ブレイブハート」
95年にはまたしても監督兼主演を務めた「ブレイブハート」が公開されます。13世紀スコットランドの独立戦争を題材とした本作はその年のアカデミー賞で10部門ノミネート・5部門受賞と、驚異的な成功を収めます。
製作費7000万ドル越え、約3時間の長尺、さらに鉄鎧を纏った歩兵や騎兵が何百人と立ち並ぶ大規模な白兵戦、「ブレイブハート」はまさしく歴史超大作と呼ぶに相応しい作品でした。
本作のラストシーンにはとにかく痛そうな描写が出てきますが(ビジュアル的にはグロくない)、「被暴力」はメル・ギブソン作品を一貫する共通テーマであり、メル・ギブソンが変態マゾヒストと言われる由縁でもあります(サウスパークでも言ってましたね)。
「パッション」
俳優業に続き監督としても大成功をおさめたメル・ギブソンが次に作った映画は宗教映画。実は彼は敬虔なカトリックで、どのくらい敬虔かと言えば自費で教会立てちゃうくらい敬虔なんですね。
それほどまでに信仰心のある人ですから、宗教的な作品も作ります。それが2004年の「パッション」です。
内容は有名なキリストの受難を描いたものなんですけど、これが映画としてとにかく異質な作品でキリストが二時間の映画の中で鞭打ちから磔刑までひたすら拷問され続ける映画なんです。
鞭打ちって聞いて皆さんどんなムチを思い浮かべます? ムチにも色々あってSMクラブなんかで使うのはあまり痛くない種類のものですが、当然「パッション」では超痛そうな一本ムチ、さらにさらに先端に鉄の欠片が付けられたドラクエの武器みたいなムチまで使われます。鉄付きムチなんて兵士が試しに振るったら机に鉄が「ザクッ」と刺さって、思わず「拷問ってレベルじゃねーぞ!」とツッコミを入れたくなります。
ストーリーは無いも同然、だってキリスト受難劇なんて少なくともキリスト教圏の人ならみんな知ってますから。
さてマゾヒズムとキリスト教というメル・ギブソンの二大テーマを兼ね備えた「パッション」は、R指定映画にしては異例のヒットを記録。どんなに歪な作品でも売れてしまえば成功は成功です。
ちなみに「パッション」は現在続編が構想中と監督本人がインタビューで明かしています。
「アポカリプト」
スコットランド独立戦争、聖書物語と一風変わった題材を扱い続けてきたギブソンが次に挑んだのは、まさかのマヤ文明もの。タイトルは「アポカリプト」です。セリフも全部マヤ語で撮るこだわりっぷりは圧巻。字幕・音声選択画面で「マヤ語/日本語」と出てくるのがかなりシュールです。
ジャングルで平和な暮らしを送っていた主人公は、ある日高度な文明を持つ他部族に襲われ捕虜となります。捕まった主人公を待ち受けるのは奴隷としての過酷な暮らしか、と思いきや主人公は儀式の生贄として殺されることに……ってまた拷問&処刑かよ!どんだけ好きなんじゃ!といった作品です。
ライムスター宇多丸さんが絶賛していることで有名な本作品、実際わたしもメル・ギブソンのフィルモグラフィ中で最もエンタメ性が高く上手くまとまっていると思います。「ハクソ―・リッジ」前に彼の過去作を一本でも見ようと考える方には迷わず「アポカリプト」をオススメします(「ブレイブハート」は長いし、「パッション」のとっつきにくさは言わずもがな)。
ちなみに解釈の別れる衝撃的なラストシーンは、メル・ギブソン自身の葛藤の表れだとわたしは考えています。歴史的に揺るぎない事実がある以上下手な改変はできないけれど、かといって自身のキリスト教徒としての信条も捨てきれない、悩み悩んだ末あのようなどちらにもとれるラストになったのでしょう。
メル・ギブソンの作家性:強烈なマゾヒズムについて
ここまでの文章で既にメルギブ作品の持つ過剰なまでの暴力性には言及しましたが、暴力描写が直接マゾヒズムと結びつくことに違和感を感じる方もいるはずです。なぜなら単純に暴力描写を撮るだけならサディズムとも言えるのですから。
ですがメル・ギブソンの映画を見れば、彼が明らかに「暴力を受けている側」に立った映像表現をしているのがわかります。具体的なシーンを例に挙げながら考えてみましょう。
「アポカリプト」:生贄の処刑
まずは捕虜にされた村人がピラミッドに連れていかれ、頂上で斬首されるシーン(首チョンパする前に生きたまま心臓を抉り取るおまけつき)。
このシーンで特徴的なのは首が斬り落とされる寸前から切り落とされた後を映した主観ショットがあること(身体から首が切り離されてもまだ意識がある、というのを主観で見せる)。よくそんな悪趣味な映像撮るよなと思いますが、重要なのは処刑を受ける村人の主観をわざわざ見せている点です。
サディストな監督なら間違いなくこのシーンは主観ではなく、殺す側の視点で撮るはずです。しかしギブソンは殺される側の視点に重きを置き、どころか殺される人の視点をそのままショットに還元しました。
「ブレイブハート」:ウィリアムの拷問
また主観ショットほどあざとくないにしろ、暴力を受ける側に立ったショットは多く見られます。「ブレイブハート」ラストの拷問シーンがいい例でしょう。
イギリス軍に捕まったウィリアムは審問官による拷問を受けますが、締めくくりである一番厳しい拷問を描くシーンでは、カメラは終始ウィリアムの顔ばかり映しており、画面には使われている拷問道具も処刑人も映りません。観客はひたすらウィリアムが苦しんでいる様子を見せられます。やはりこのシーンでも視点は暴力を受ける側のウィリアムにあるんですね(もちろんウィリアムが主人公なので彼視点なのは当たり前ではありますが)。
被暴力に寄った描写
ここまでの二例でもわかるように、メル・ギブソンが暴力を描く時、視点はいつも暴力を受ける側にあります。それは最新作「ハクソー・リッジ」でも変わりなく、殺すショットよりも殺されるショットが遥かに多く挿入されています。
メル・ギブ映画の主人公はいつも「〇〇される」「〇〇された」被虐者です。だからこそ第二次大戦モノである「ハクソー・リッジ」でも、主人公は銃を持たず一歩的に狙われるだけの衛生兵なのでしょう
そして「ハクソ―・リッジ」へ
さて長くなりましたがこの記事はここらで〆とします。メル・ギブソンについては信仰の面からなどまだまだ語り残した話もありますが、それはまた次回アップする「ハクソー・リッジ」の記事で書くとしましょう。
白兵戦の泥臭さ、血生臭さをメルギブならではの視点で描いた戦争映画の新たな傑作「ハクソー・リッジ」、気になる方はいますぐ映画館へどうぞ!
以上もゆる(@もゆる2580)でした。
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「TAP THE LAST SHOW」は日本版「セッション」になり得たか?【レビュー・感想】
目次
あらすじと概要
どうも、もゆるです。
「相棒」の右京さんでお馴染みの俳優水谷豊が監督・主演を務めた「TAP THE LAST SHOW」が6/17よりロードショー、ということで早速劇場にて鑑賞して参りました。
実は私、邦画にはイマイチ食指の動かないタチなのですが、本作は予告を一見してタップの打ち鳴らすリズムと「魂が鳴り響く、ラストダンス24分」という謳い文句に惹かれ映画館に足を運びました。
ストーリーはごくシンプル。ショー中の事故で引退を余儀なくされた元天才ダンサーの渡(水谷豊)は、旧友である劇場支配人の毛利(岸部一徳)から閉館前最後のショーの演出を依頼される。堅物な渡は怒鳴り散らしながら才ある若きダンサーを選び抜き、来たるラストショーに向け稽古を始めるが、至る所で問題が発生し始め……と「相棒」の右京さん慣れしている人には水谷豊の頑固ジジイ演技がかなりショッキングな映画になっています。
「セッション」との類似点
鬼教官ものでラストが凄まじい映画といえば、やはり連想されるのは「ラ・ラ・ランド」で一世を風靡したデイミアン・チャゼル監督の「セッション」です。あちらはビッグバンドジャズを題材にして、主人公を鬼教官にしごかれる生徒側に置いているという違いはあるものの、タップもある意味打楽器ですし2つの作品はかなり近いように思えました。
「セッション」は鬼教師フレッチャーの内面をあえて描かなかったため、フレッチャーの指導が持つ理不尽さがより強調されていましたが、観ている側としては鬼教官がなぜ厳しいしごきを生徒に課すのかを知りたい部分もありました。
なので私は「TAP」が「セッション」の視点違いバージョンのようなつもりで見に行ったのですが、蓋を開けてみれば本作はデイミアン・チャゼルの「セッション」とは遠い作品でした。
実はそれほど厳しくない水谷豊
いや、勝手にこの映画を日本版「セッション」と期待した私が悪いのですが、別に本作の水谷豊はフレッチャーほど鬼ではありませんでした。
それこそフレッチャーはシンバル投げるわ椅子投げるわで、キレると収集のつかない男でしたが、「TAP」の渡は怒っても精々怒鳴るぐらいです。
それに渡のしごきは彼の計算の内のようで、怒鳴りが効果的でない相手には怒鳴らずに対応したりと巧妙にアメとムチを使い分けています(それが渡の指導者としての長所なんでしょうが)。
フレッチャーが私たちに凄まじいインパクトを与えたのは、鬼教官ものにありがちな「とにかく厳しかったけど、実は生徒のことを思ってくれてたんだ(目には涙)」みたいな安い演出を拒否し、ひたすらムチを奮い続けていたためです。
渡は良い指導者でしたが良いキャラクターではありませんでした。それはフレッチャーが最悪の指導者でありながらも最高のキャラクターだったことと対照をなします。
まずこれで、「セッション」と「TAP」第一の共通点に思えた「鬼教官」が無効化されました。
ラストダンスを邪魔するドラマ
「TAP」は役者に積極的にダンサーを起用しており、ダンスシーンへの徹底したこだわりが見られます。さすが水谷が40年来構想を温め続けていただけあって、生半可な出来ではありません。
しかし、肝心のタップを安っぽいわりに尺を取りまくる人間ドラマが邪魔しているのには心底ガッカリさせられました。
本作の構成は「七人の侍」よろしく仲間集め→準備→本番の三幕構成になっているのですが中盤の準備パートに入った途端、貧乏、吃音、介護、過保護な親、妊娠、病気と登場人物たちの抱える問題が次々浮上してきます。
あまりにも多くのドラマを展開するため徐々に映画は群像劇の感を帯びはじめるものの、個々の問題が有機的に絡まり合って最終的に一気に解決……したりせず、そもそも解決すらしているのかしてないのか曖昧なまま映画はラスト24分のダンスシークエンスへと突入していきます。
さて、いよいよラストダンスが始まり安いドラマから解放されたかと思いきや、ここにきて更にテレビドラマ的なチープな演出が続きます。
タップのカットはいい。でもタップのカットの合間に定期的に観客の顔を映すんですね。感動して泣いてる人とか映しちゃう。しつこく挟まれる観客の反応のために、タップが生み出す勢いは著しく削がれてしまいます。
「セッション」の息もつかせぬラスト10分の演奏シーンはひたすら舞台の上だけを映します。これでもかと言わんばかりに続くニーマンの演奏、セリフはほぼなし、彼の演奏が醸す狂気はスクリーンを越えてこちらにも伝わってきます、まさに「向こう側の世界を垣間見る瞬間」です。見ている父親の顔が大写しになるカットも一度だけ挟まれますが、そのワンカットには大きな意味合いが込められています。
「TAP」も本当に観客を「向こう側の世界」に連れて行きたいのなら、無駄を削いでタップを集中的に見せるべきだったのではないでしょうか。
卓越した人物描写
ここまで批判中心の語りが続きましたが、本作には評価されるべき部分も多いにあります(映像は全編を通して安定していますし、プロダンサーの皆さんの演技もプロ顔負けです)。
中でも特筆して賞賛できるのは、ちょっとした映像やセリフだけでされるスマートな人物描写です。
例えば冒頭で岸部一徳演じる毛利が渡にコーヒーを差し入れに行くシーン。自分と渡の分で二杯コーヒーを買っていった毛利ですが、渡の家に着くや否や自分のコーヒーをシンクに捨てそのコップに水を注ぎ薬を飲みます。
せっかく640円出して買ったコーヒーを捨てて水で薬を飲む、このごく短い行動は毛利の「渡への思いやりと金遣いの荒さ」と「何らかの病気である」ことを実に端的に表しています。
また吃音持ちのダンサー純のどもりも単なる記号で終わらせないために、一工夫が加えてあります。吃音の人には「言いたいのに言えない言葉」があり、なんとか言えない言葉を表現するために言い換えて喋る、という話を聞いたことがあったのですが、実際劇中で純は「デュエット」がどうしても発音できず最終的に「同時に2人で踊るパート」と言い換えていました(セリフは正確ではありません)。
細かな言動による人物描写の巧みさは監督である水谷が俳優としてキャリアを積み上げてきたからこそ成しえたものでしょう。
次回作への期待
ドラマ部分に問題はあれど、初監督作品として「TAP」は高水準な仕上がりだったのではないでしょうか。今回は成功した部分と失敗した部分がかなりハッキリと別れていましたが、それは次回作以降で弱点を補い得るということでもあります。「夢見んのはこれから」ですよ!水谷監督!(何様だよ)。
そんなわけで「TAP THE LAST SHOW」、タップの踏めるビートたけしが出演していなかったのがちょっぴり不満でしたが(私だけ?)、水谷豊の張り切りっぷりを見たい方はぜひ劇場にどうぞ。
以上もゆる(@moyuru2580)でした。
「うどんが主食」炎上問題をきっかけに観てほしい「SNS+グルメ映画」
先日、グルメレビュー投稿サイト「食べログ」の人気レビュアー「うどんが主食」さんが、食べログにて高評価をつける見返りとして店側から接待を受けていたという疑惑が週刊文春によって発表されました。
コラボ商品が発売されるほどの人気グルメレビュアーのスキャンダルに、食べログ側は2000件以上あったうどん氏の投稿をほぼ全件削除。本人は食べログプロフィールでこう述べています。
私はこれまで飲食店を評価する時、いくら親しい友人の店であっても正直に評価をしてきました。
今回、週刊文春の記事において書かれたことで多くの読者の方々に誤解を与えてしまい、
また友人のお店に多大なる迷惑をかけてしまいました。
今後、たとえ美味しくても友人のお店は誤解を招く恐れがあるので一切レビューしないことにします。
規模こそ違えど同じレビュアーとして複雑な気分になっていましたが、同時にグルメブロガーが登場する映画の存在を思い出しました。
単にグルメブロガーが出てくるだけでなく、インターネットの怖さについて描いた映画でもあるのので、この機会にその映画「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」を紹介してみます。
目次
あらすじ
ジョン・ファヴロー監督の映画「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」では、一流レストランのコック長をクビにされた主人公(ジョン・ファヴロー)がフードトラックでキューバサンドを売り始めるというストーリーなのですが、主人公がクビにされる理由が「店に来た有名なフードブロガーとケンカしたせいで炎上しちゃった」からなんですね。
主人公カールがいつも通り調理場で料理に勤しんでいると、調理場にオーナーがやってきて「ちょっとキミ今日有名ブロガーがウチにくるらしいから」と釘を刺す。
なんでもその有名ブロガーは前に書いていたブログが1000万ドルで売れたとかなんとか。さすがアメリカ、プロブロガーもアメリカンサイズです。
さてやってきたグルメブロガーに定番の人気メニューを提供したカール……ですが、アップされたレビューはとても高評価とは言い難いものでした。(接待しなかったからかな……)
低評価が気にくわないカール、彼は怒りに任せてグルメブロガーのtwitterに突撃(機械音痴なので息子に使い方を教えてもらう)、実名のtwitterで暴言を吐きまくり、翌日には大炎上の状態となってしまいます。
強調されるインターネットの力
「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」では、ブログやtwitter、vineなどのwebサービスがシナリオ上で重要な役割を担っています。この映画のタイトルはいかにも料理がテーマのように思えますし、実際その通りです。しかし同時にこの映画には裏テーマがあり、それは「インターネットの恐ろしさと便利さ」なのです。
カールはtwitter炎上やグルメブログでの低評価によって仕事を追われますが、映画後半ではSNSの力に助けられもします。家庭も仕事もボロボロになったところからカールを再生に導いてくれるのが、奇しくも一度彼を破滅させたSNSなんですね。
今でこそ会社や飲食店がSNSやブログで情報発信を行うのは当たり前になりましたが、「SNSを用いたマーケティング」を題材にした映画はかなり珍しい……いや他にあるんでしょうか? 少なくとも私は知りません。
料理を作ることの官能性
この映画、カールが料理するシーンに尺をとって、やたらと手の込んだ映像で調理シーンを見せるのが特徴です。キレのいい手さばきでどんどん料理が作られていく様子を眺めるのは見ていて気持ちがいい反面、甚だしい飯テロでもあります。
調理シーンの中でも面白いのがカールが同僚のソムリエ(スカーレット・ヨハンソン)にパスタを振る舞うシーン。何が面白いって夜2人でマリファナふかしながらいい雰囲気になって、このままベッドシーンかなと思ったらカールは突然「料理作らせてよ」と一言、スカヨハも「いいわ行きましょ」なんて言いだします。ベッドじゃなくてキッチンに行くんですね。
そして肝心の調理シーンはなぜか数カットに一回スカヨハがベッドの上でセクシーなポーズをとっているカットが挟まります。完全にスカヨハの無駄遣いです。段々スカヨハがエロいのか料理してる手つきがエロいのかわからなくなってきます。
つまりこれって、カールにとって自分の作った料理を誰かに食べさせることはセックスにも劣らぬほどのコミニケーションだという意味なんでしょうか。
英語圏では飯テロを「フードポルノ」なんて言うようですが、食と性はコインの裏表のような概念なのかもしれません。
「ブロガー 五つ星うどん屋さん始めました」
さてうどんが主食さんの話題から始まった関係あるんだかないんだかわからない「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」の紹介でした。
それにしてもうどんが主食さんは、これからも食べログレビューを続けるんですかね。心機一転フードトラックでも買って、全国を巡る移動うどん屋さんでも始めるのもいいかもしれません。
ちなみにマルちゃんとのコラボで発売された「マルちゃん 縦型ビッグ うどんが主食 讃岐風うどん」は発売日が6/5らしく、このタイミングで(文春の記事は6/7アップ)スキャンダルを発表した文春の陰謀を感じずにはいられません。
最後に余談も余談ですがこのうどん、近所のコンビニで200円で大量に積んであって「色々大変そうだな」と思う私(@moyuru2580)でした。誰が200円のうどん買うんじゃ!
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【レビュー】デカいグルート、少年救う。「怪物はささやく」
映画が誕生して以来「登場人物の感情をどのように表現するか」という命題は多くの映画作家を悩ませてきました。
どれだけ性能のいいカメラでも人の心の中は映せません。だからこそ映画はその歴史の中で、役者の顔を大写しにするクローズアップなどの感情描写技術を確立させてきました。
今日紹介する映画は、繊細な少年の心理をCGやアニメーションなども用いながら巧みに表現した「怪物はささやく」です。
※本編の内容について若干のネタバレがあります
目次
あらすじと概要
イギリスの文学賞であるカーネギー賞とケイト・グリーナウェイ賞をW受賞した同名小説の映画化作品「怪物はささやく」(原題「A MONSTER CALLS」)。メガホンをとったのは「ジュラシック・ワールド2」の監督を予定されていて、絶賛出世街道まっしぐらなJ・A・バヨナです。
肝心のストーリーは、センチメンタルな少年コナー(ルイス・マクドゥーガル)が癌で余命幾ばくもない母親(シガニー・ウィーバー)の死を受容する過程でいかに成長していくか……とここまではよくある話ですが、タイトルにもある「怪物」が少年が成長するうえで重要な立場を担っています。
深夜12時07分きっかりに現れるでかいグルート巨大な樹の怪物は、コナーに「これから私は3つの物語を語る。そして3つの物語を語り終えた後でおまえ自身に4つめの物語を語ってもらう」となにやらよくわからないことを言い出す。
コナー少年は意味もわからないまま怪物の語る物語を聞かされ、それにつれて徐々に自身の認識や行動を改めて成長していく……というのが大方のストーリーになっています。
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J・A・バヨナの作家性
新進気鋭の映画監督J・A・バヨナ。彼はこれまでに「永遠のこどもたち」「インポッシブル」と2本の映画を監督していますが、それら2本の映画と今回の「怪物はささやく」にはいくつかの共通点があります。
まず一つ目の共通点は親と子の関係を描いた物語であること。ジャンルがホラーでも事実を基にした作品でも、親子の話であるという点はブレていません。
もう一つの共通点は現実と虚構の境界線が曖昧な映画であるということ。スマトラ沖地震の実話を基にした「インポッシブル」は例外ですが、ホラーミステリー「永遠のこどもたち」では、幽霊は実在するのかそれとも主人公の妄想なのかが非常に曖昧に演出されていて観客を困惑させるように作られています。それに「永遠のこどもたち」の制作総指揮にあたったギレルモ・デル・トロの「パンズ・ラビリンス」も虚構と現実が入り混じったような作風で、バヨナ監督がデル・トロから影響を受けた可能性は捨てきれません。
「怪物はささやく」は21世紀の「ファイト・クラブ」である
前章で「怪物はささやく」は、現実と虚構の境界線が曖昧な映画だと述べました。ではどのあたりが“現実と虚構の境界線が曖昧”なのでしょうか。
本作に登場するイチイの木の怪物は、登場するたびにコナーの家をめちゃくちゃに破壊しますが、怪物が消えた次のカットでは破壊された家は元に戻っています。またコナー以外の人は怪物の存在に気づきもしません。これは怪物は虚構の存在、主人公の妄想の産物のような存在であることを示す描写と考えるのが妥当でしょう。
ところがコナーの妄想の産物であるはずの怪物は、コナーの知らないことを知っていて、それを彼に「3つの物語」として語ります。
ある意味では怪物は、コナー自身の無意識が擬人化したものだと考えられます。怪物はコナーが自覚していないながらも心の底で思っていることを知っています。コナーは自分の妄想が生み出した怪物とのやり取りを通して、自身の本当の気持ちに向き合っていくのです。これってまるで「ファイト・クラブ」みたいな話だと思いませんか?
妄想の世界で破壊行為に夢中になっていたコナーが、気がつけば現実で家の家具を木端微塵になるまで壊していた、というシーンがあります。このシーンは主人公がずっと内側に秘めていたストレスやフラストレーションが爆発する場面であり、コナーと怪物の二重人格性が露になる場面でもあります。
ストーリーに負けない映像の魅力
本作はCGとアニメーションを使った映像表現が観客に飽きを感じさせないように映画を演出しています。
リーアム・ニーソンがモーションキャプチャーで演じた怪物の動きがダイナミックなのは言わずもがな。公式からメイキング映像がupされていますが、さすが手が込んでます。
さらに特筆したいのは、怪物がコナーに物語る際に流れるCGアニメーションについて。3DCGと二次元の水彩画の中間をいくような映像は、「風ノ旅人」や「LIMBO」など往年の二次元風グラフィックを用いたゲームを想起させます。
制作したのはCGアニメ「Trollhunters」でアニー賞3部門受賞を果たしたヘッドレス・プロダクション。余談ですがデル・トロが制作総指揮を務めた「Trollhunters」は、netflixにて視聴可能です。
「ジュラシック・ワールド2」の期待高まる
「ジュラシック・ワールド2」の監督に大抜擢されたJ・A・バヨナ。彼のこれまでのフィルモグラフィには、「ジュラシック・ワールド」のような完全にエンタメに振り切った作品はありません。
師匠筋にあたるデル・トロは「ヘルボーイ」や「パシフィック・リム」などのエンタメ作品と「パンズ・ラビリンス」のような真面目な作品を上手く撮り分けていますが(押井守の発言)、バヨナ監督はザ・エンタメ映画な「ジュラシック・ワールド」をどう料理するのでしょうか。
【レビュー・感想】モンスター映画×マッドマックス=「LOGAN/ローガン」
漫画でも映画でも、長続きしたシリーズが尻切れトンボでお粗末な終わりを迎えた例は珍しくありません。
売れた作品は続編が出るのが常です。しかし、同じ題材を使いまわし続ければいずれはネタが尽きるか、飽きられるかして人気は徐々に落ちていきます。
しかし、人気が絶頂を迎えた瞬間にあえて自ら終わりを宣言するコンテンツも確かに存在します。今日紹介する「LOGAN/ローガン」は終末の美学をもってヒュー・ジャックマン=ウルヴァリンに終わりを告げた傑作です。
目次
あらすじ
突然変異によるミュータントの誕生が止まり、ミュータントが絶滅の危機に瀕している近未来。体内に埋め込まれたアダマンチウムの毒により治癒力を失いつつあるローガンは、ある日様子のおかしなメキシコ人女性から娘を預かってくれと迫られる。面倒事を避けたがるローガンだが、世話を頼まれた少女の手からアダマンチウムの爪が生えるのを目にし……。
昨今のド派手なスーパーヒーロー路線を拒否
「X-MEN: アポカリプス」に「スーサイド・スクワッド」……、最近のアメコミ実写映画で「なんだかスゴイ超能力で大都市が破壊されて、巨大な火柱が上がったり嵐が起きたりする」映像を見るたび、私はため息をついていました。
いくら映画館の巨大なスクリーンで鑑賞したって、こう何度も似たようなディザスター映像ばかり見せられては辟易します。スケールデカければいいってもんじゃありません、風呂敷広げればいいってもんじゃありません。
「ダークナイト」はほぼゴッサムシティの中だけの話が繰り広げられる、ある種スケールの小さなヒーロー映画でしたが、「ダークナイト」には見る者を否応なく興奮させる力がありました。
マーベルやDCが連発する興行的に外すことの許されない大予算映画は、制作陣の自信のなさ故にか過剰に派手な絵作りがなされているのではないでしょうか。
しかし「ローガン」の監督ジェームズ・マンゴールドは、そのような過剰な派手さやスペクタクルなCGを断固として取り入れませんでした。彼はあるインタビューでこう語っています。
「世界の命運を描くような作品だったら、サンフランシスコの破壊シーンがあったりしてバカ高い予算がかかる。でも僕が語りたかったのは、車で旅する三人の人物についての物語。あらゆる面において、観客に物語を伝えるうえで十分な予算があった。クソッタレなCGに余計なお金をかけるようなこともなかったからね」
あえて映像を派手に演出することをせず、堅実なカットの積み重ねで映画を撮る。それは監督の自信の表れでもあります。そしてジェームズ・マンゴールドは「ローガン」で、大爆発もビームもどこからともなく飛んでくるアイアンマンスーツも無くたって面白いアメコミ実写映画は撮れると証明してくれました。
ロードムービーであり、同時にモンスター映画でもある
X-MEN+マッドマックス
冒頭でローガンが住んでいるのはアメリカ-メキシコ国境沿いに位置する町エル・パソ。アメリカ南部特有の地平線まで見えるような荒涼とした大地は自ずと「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を連想させます。
実際序盤の目玉である一連のアクションシーンは、「あえて戦っている場面を見せない演出(「デス・ロード」でやった「七人の侍」オマージュのオマージュ?)」→「車での逃走劇」と、かなりマッドがマックスな感じになっていました。ミュータントのキャリバンも白塗りでウォーボーイズを彷彿とさせる風貌。またエデン(楽園)を目指して旅するストーリーもやはり「デス・ロード」を思わせます。
極端なまでにグロテスクな描写
「ローガン」はR15+の指定を受けていますが、「デッドプール」のR指定が判明した時ちょっとした話題になったように、アメコミ実写映画がR指定を受けるのはかなり珍しいことです。中学生以下が見られないとなると興行面で不利益が大きくなるので、普通はR指定を受けるほどゴアな描写なんて製作者側は撮りたくないんですね。
しかし「ローガン」に限っては最初から最後まで血と肉が飛び散りまくりの人死にまくり。明らかにR指定覚悟で作っているのがわかります。
「ローガン」はモンスター映画である
映画ジャンルとして明確に分類が為されているわけではありませんが、「モンスター映画」あるいは「モンスター・パニック映画」と呼ばれるような映画は無数に存在します。ここで私がいうモンスター映画とは、「怪物が暴れまわって人を殺したり、文明を滅茶苦茶にする映画」を指します。代表的な例を挙げるなら「ゴジラ」や「JAWS」などはモンスター映画と呼んでも反論の余地はないでしょう。
そして「ローガン」はこのモンスター映画の要素を多分に含んでいます。「ローガン」におけるモンスターとはローガンらミュータントに他なりません。承知の通りこの映画ではローガンも彼のクローンであるローラも躊躇いなく人を殺します。表面的には彼らの殺人に人間らしい逡巡は見られません。戦闘中のローガンとローラはまさにモンスターそのものです。
ウルヴァリン=狼男
また、そもそもウルヴァリンは歴史あるモンスター「狼男」をモデルとしている部分が多分にあります。名前自体が狼(wolf)の複数形wolvesのもじりになっていますし(Wolverine)、顔中に髭を蓄えた容貌も獣らしいものです。またウルヴァリンを唯一殺せる武器として劇中で何度か登場するアダマンチウムの弾丸は、吸血鬼や狼男などに有効だと言われている銀の弾丸(シルバーバレット)のイメージが重ねられているはずです。
他にもキャリバンは映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」に登場する吸血鬼そっくりで、実際劇中でも本人がセリフでノスフェラトゥ(吸血鬼)と言っています。
以上の通り、「ローガン」ではミュータントの怪物性がことさら強調されており、本作は「モンスター映画」と呼ぶにふさわしい作品です。
そして「ローガン」の魅力はモンスター映画でありながら視点が暴れ回るモンスターの側にあり、尚且つモンスターが疑似家族を形成しドラマを織りなすことです。暴力と愛情のコントラストがこの映画を今までのアメコミ実写映画史上になかった作品に昇華させているのです。
緩急の効いたシャープな脚本
この映画のストーリーには2点、まるで休憩地点のような箇所があります。ネタバレを避けるので具体的には書きませんが、映画をご覧になった方ならすぐにおわかりかと思います。
戦闘シーンもカーチェスもなく、敵が追ってくる気配もない。ただみんなで楽しく食事したり、ローガンの髭を剃って遊んだりする穏やかな場面がバイオレンスな映画の中に2点だけ挿入されている。
先ほど「デス・ロード」の話をしましたが、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」にも行って帰ってくる時の折り返し地点で、戦いの気配のない穏やかなシーンが挟まれます。
予算もたっぷりあるはずのアクション映画が、なぜアクションのない静かなシーンを入れるのか? それは2時間ぶっ続けでアクションシーンでは、さすがに観客の集中力が持たないからでしょう。アクションシーンの緊迫感を引き出すには、要所要所であえて緊迫感のない「だらけた」場面を挟み、観客の緊張をほぐす必要があるのです。
押井守は著書などでよく「ダレ場理論」という言葉を使いますが、それにも通ずるような印象的ダレ場が「ローガン」にはありました。
また2箇所ある「ダレ場」には、暴力と対をなすこの映画のもう一つのテーマ「家族」を強調する役割があります。暴力と愛の入り混じる「ローガン」にとって、家族の温かさを演出するダレ場は必要不可欠だったのです。
あとがき
この映画はアメリカ南部から北に向かって国境を渡り、カナダへと逃げる話です。そして先月公開された「ノー・エスケープ 自由への国境」は、メキシコからアメリカへ渡る密入国者が自警団に追われる話です。
いつからアメリカは「来るものを拒んで去る者を追う」国になってしまったのでしょうか。もはやアメリカにとって、自由の国なんて謳い文句は完全に形骸化してしまったのでしょうか。
映画は国を映します。アメリカの人種問題を下敷きにした物語X-MENが、ミュータントの絶滅しつつある未来を舞台にした意味は、もはや考えるまでもありません。
ネガティブな終わり方になってしまいましたが「ローガン」は名作なのでぜひ劇場までどうぞ。
近所の女子高生が毎晩添い寝してきて困っています(15才男性)「20センチュリー・ウーマン」【レビュー・解説】
うーん、「ネオン・デーモン」でエル・ファニングいいなと思いましたけど、またしても彼女に魅せられる映画を見つけてしまいました。
「近所の女子高生に毎晩添い寝される」映画、「20センチュリー・ウーマン」。いい映画です。
目次
- あらすじ
- なぜ今20世紀を舞台に物語るのか?
- 異性との危うい関係
- あとがき